一回のひねりがすべてをつなぐ、一枚の帯についての話。
一枚の紙を一回ひねって、両端をつなぐ。それだけで、表だけを歩いているつもりが、いつの間にか裏側を歩いている。そんな帯ができあがる。メビウスの輪だ。
子供の頃、理科の授業か何かで初めてこれを手にしたとき、不思議な気持ちになったのを覚えている。指でなぞっていくと、表から裏に移った瞬間が、どこにもないのだ。境界線を探しても見つからない。気づいたときには、もう裏側にいる。
人生もどこか、これに似ている気がする。
数学の世界では、メビウスの輪は「向き付け不可能な曲面」と呼ばれる。表と裏という区別そのものが成立しない曲面、という意味だ。普通の紙なら、表に色を塗れば裏は白いままだし、表を歩くアリは決して裏に行けない。ところがメビウスの輪の上を歩くアリは、同じ面を歩き続けているだけなのに、気がつけば最初に立っていた場所の「反対側」に立っている。誰も裏切っていないし、誰も境界を越えていない。それでも景色はいつのまにか変わっている。人生のある種の変化も、これに近いのではないかと思う。
表と裏は、実は一枚でできている
私たちは普段、人生を「良いこと」と「悪いこと」、「成功」と「失敗」、「順境」と「逆境」というふうに、二つの面に分けて考えがちだ。今は表の時期、今は裏の時期、というように。履歴書に書けることは表で、人に話せない時期は裏。そんなふうに、知らず知らずのうちに人生を仕分けしてしまう。
でもメビウスの輪に表と裏がないように、本当はこれらも一枚の面の上でつながっているのかもしれない。失敗だと思っていた出来事が、回り回って今の自分を支えている。順境の中にいたはずの自分が、実は少しずつ裏側へと滑り込んでいた。表と裏は対立するものではなく、同じ帯の違う場所にすぎない。分けて考えること自体が、最初からできない相談だったのだ。
仕事を辞めた時期のことを思い出す。当時はそれを人生の「裏側」だと思っていた。でも今振り返ると、あの空白の時間があったからこそ、今やっていることに出会えた。あのときの自分には、自分がどちらの面にいるのか分からなかった。分かる必要すらなかったのかもしれない。帯はずっと一枚のままつながっていたのだから。
東洋の陰陽もまた、同じことを語っているように思える。陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ずる。太極図を見ればわかるように、陰と陽の境目は直線ではなく、ゆるやかなS字を描いている。しかもそれぞれの中には、互いの色をした小さな点が埋め込まれている。陰の中にすでに陽の種があり、陽の中にすでに陰の種がある。極まった先で急に反転するのではなく、最初からもう一方を内側に抱えたまま、少しずつ入れ替わっていく。メビウスの輪の上で表がいつのまにか裏になっているのと、太極図の陰が気づけば陽に転じているのは、おそらく同じ構造を別の言葉で描いたものなのだろう。
進んでいるのに、戻ってくる
メビウスの輪の上を歩き続けると、一周してもとの場所に戻ってくる。でも、よく見ると全く同じ場所ではない。裏側を一度通ってきた分だけ、何かが違う。
人生で何度も「あれ、これ前にもあったな」と感じる瞬間がある。似たような人間関係の悩み、似たような壁、似たような感情の波。前に進んでいるつもりなのに、同じテーマが形を変えてまた訪れる。それを「振り出しに戻った」と捉えて落ち込むこともできる。でも本当は、一周回って帰ってきた自分は、行きの自分とは違う場所に立っている。同じに見えるテーマも、通った分だけ違う角度から見えているはずだ。円環は停滞ではなく、螺旋に近いのかもしれない。
たとえば、二十代のころに傷ついた人との距離の取り方が、四十代になってまた別の相手との間で問題になる。一見すると同じ失敗を繰り返しているようで、実のところ扱っている深さが違う。一度目は表面を撫でただけだったものが、二度目には根のところまで触れている。輪を一周するたびに、同じ道のはずなのに、通ってきた裏側の分だけ理解の層が増えていく。それは後退ではなく、螺旋を一段降りる、あるいは一段上がることなのだと思う。
どこにも境界線がない
メビウスの輪の面を指でなぞり続けても、「ここからが裏です」という線は現れない。連続している。だからこそ、今自分がどちら側にいるのか、本人にすら分からないことがある。
これは人生においても、わりと正直な話だと思う。今は良い時期なのか、悪い時期なのか。渦中にいるときほど、それが分からない。後になって振り返って初めて、「ああ、あれは裏側だったんだな」とか「あのときが表だったのか」と気づく。でもそのときでさえ、本当は表も裏も地続きで、無理に線を引こうとしていただけなのかもしれない。良い・悪いを切り分けようとする努力そのものが、そもそも成り立たない問いだったとしたら。
面白いのは、他人から見た自分の「表」と、自分が感じている自分の「裏」がしばしばずれていることだ。周りからは順調に見えている時期に、本人は誰にも言えない不安を抱えていたりする。逆に、どん底だと思っていた時期を、後から誰かに「あのころのあなた、すごく楽しそうだった」と言われて驚くこともある。境界線がないというのは、自分自身にとってだけでなく、見る角度によっても表と裏が入れ替わる、ということでもあるのだろう。
ひねりがあるから、一つになる
もし紙をひねらずにただ輪にしたら、普通の輪ができるだけだ。表は表のまま、裏は裏のまま、永遠に交わらない。メビウスの輪が特別なのは、あの「ひねり」が加わっているからこそ、一枚の面として、一つの意味のある形として成立している、ということだ。
人生も、何の波乱もない「まっすぐな帯」だったなら、きっとただの繰り返しで終わっていた。挫折、別れ、失敗、思いがけない転機——そうした「ひねり」が入るからこそ、バラバラだったはずの出来事が一本の線としてつながり、一つの人生という形になる。ひねりは邪魔者ではなく、全体を一つにまとめるために必要な、たった一回のねじれなのだと思う。
大きな病気をした友人が、「あの入院がなければ、今の仕事も、今の家族との関係も、たぶんなかった」と話してくれたことがある。本人にとって、それは望んだひねりではなかったはずだ。それでも、そのひねりがあったからこそ、それ以前の自分とそれ以後の自分が、一本の意味のある帯としてつながった。ひねりの瞬間には、それが何のためのものかは分からない。分かるのは、ずっと後になって、全体を少し離れたところから眺めたときだけだ。
表と裏を分けようとせず、同じ場所に戻ってきたことを後退だと思わず、境界線が見えないことに焦らず、そしてひねりそのものを、形を成り立たせる条件として受け入れること。
メビウスの輪を指でなぞるように、自分の人生をもう一度なぞってみると、分断していたはずのものが、案外一枚につながって見えてくるかもしれない。良かったことも、悪かったことも、繰り返しているように感じる悩みも、どこにあるのか分からなくなる境界線も、そして思いがけなかったひねりでさえも、すべてが同じ一枚の帯の上の出来事だったのだと。
歩くのをやめない限り、この帯には終わりがない。ただ、どこを歩いていても、それは紛れもなく自分の人生という、たった一枚の面の上なのだ。
MÖBIUS STRIP · ONE SURFACE, ONE LIFE


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